子どもの権利とコルチャック先生
人間の歴史は大人の都合で子どもの人権や命をないがしろにしてきました。
戦争や災害、経済危機等の社会に危機が及ぶ際には、かならずその被害は弱い者に及びます。子ども・障害をもった方・マイノリティーの方々などです。しかし、ないがしろにしてよい人権や命はありません。
今から100年も前、おとなの人権さえ踏みにじられた戦禍の時代に「子どもにも人権がある」と訴え、その理念に基づいた実践をした人がいました。それがコルチャック先生です。コルチャック先生の理念は長い道のりの果てに、第二次大戦後、当時は社会主義国だったポーランド政府を介して、1989年に国連の「子どもの権利条約」になり、今もこれからも世界中のこどもたちを守る指標になっています。
コルチャック先生(Janusz Korczak)は1878年、当時はロシア領ポーランド王国の首都ワルシャワに生まれました。弁護士だった父親が18歳で亡くなり生活が一変、苦学をしながら家計を支えました。コルチャック先生は「明るい学校を作り、子どもたちから慕われる優しい教師になる」ことが夢でした。しかし4つの戦争と3つの革命という過酷な歴史の動きに翻弄されます。苦労しながら医学部で学び、小児科医になってからもワルシャワ慈善協会の会員として社会の底辺にいる子どもたちへ奉仕活動を続けます。日露戦争では従軍医として招集され戦地に赴くなど、過酷な体験の連続でした。
その後、ユダヤ人の子どもの為の施設「ドム・シェロット(孤児たちの家)」と、ポーランド人の子どもの為の「ナシュ・ドム(僕たちの家)」を設立し、その運営に全力を注ぎます。この二つの施設では、子どもたちが子どもたち自身の自治によって、自分たちの生活に取組み、秩序や規範を守っていく取組みがなされました。子どもたちによる「子どもの議会」「子どもの裁判」「子どもの法典」という3つの柱の取組みと、問題を起こした子どもたちに対して、周りの子どもたちが立ち直らせていく取組みが実践されました。コルチャック先生と施設のスタッフたちは、子どもの主体的な活動を見守り、子どもたちはコルチャック先生の愛と信頼に応えていきました。子どもに自治を委ねる生活支援や教育の在り方は、現代でも斬新なことであると思います。
この時代のポーランド
ポーランドはHeart of Europeといわれ、まさに地政学的、文化的に東西ヨーロッパの懸け橋になっているヨーロッパの中央に位置する国です。しかしその為に昔から戦禍の犠牲になってきた歴史があります。近代でも18世紀末の国家分割を経て、昨今の20世紀に至るまで過酷な歴史を歩み続けました。この間にポーランドの人々が受けた苦痛と悲しみ、戦争で流された血ははかりしれません。特にポーランドは世界中で迫害されていたユダヤ人に寛容な政策をしていたので、多くのユダヤ人が住んでいました。その人々がホロコーストの犠牲になったのです。
ポーランド国内には、ナチスによるユダヤ人抹殺政策の為の強制収容所や絶滅収容所が数多く作られました。アンネフランクやコルベ神父が亡くなったアウシュビッツ収容所もポーランドにあります。アウシュビッツだけでも数百万人のユダヤ人や身体に障害のある方、迫害を受けてきたマイノリティーの方々が犠牲になりました。
第二次世界大戦はナチスによるドイツ軍のポーランド侵攻で始まりました。その後、国が二分され、ユダヤ人はゲットーに強制的に移住させられました。ポーランド人でも食糧が無い時代、ユダヤ人が収容されているゲットーでは多くの人々が飢餓に苦しみ、街中には飢えて死んだ子どもたちの死体が累々と残されていました。コルチャック先生は行き倒れている子どもに水やわずかばかりの食糧を与えるとともに温かい言葉をかけ、死の旅に旅立つ子どもたちにホスピス的ケアまでおこなったのです。
ポーランドは第二次世界大戦で600万人もの国民の命を失い、そのうち200万人が尊い子どもの命でした。身勝手な大人の都合により亡くなってよい子どもの命はありません。この歴史を繰り返すことなく、世界を変えていかなければならないと、ポーランド政府は1978年に「子どもの権利条約」の草案を国連に提出しました。『子どもは今を生きているのであって、将来を生きるのではない』というコルチャック先生の考え方は、子どもの権利を守る為の普遍条約の形で、国際社会への提起になりました。
当時は冷戦の時代、ポーランドは社会主義諸国の一員でした。人権を守るのは西側諸国という考え方の時代に、ポーランド政府は「子どもの人権を守る」という人権にとって積極的かつ建設的な役割を果たしました。子どもの人権を守ることは、イデオロギーに関係なく、人類のゆるぎない使命なのだと思います。そして国連の子どもの権利条約には、コルチャック先生のこどもたちに対する永遠の願いが込められているのです。
コルチャック先生について
ヤヌシュ・コルチャック(Janusz Korczak 1878-1942)

本名ヘンルィク・ゴールドシュミット
当時のポーランドにおいて小児科医・孤児院施設長・また作家として活躍したユダヤ系ポーランド人
“私は、この不思議で、生命に満ちあふれ、予期しえぬ点で最高の輝きをもつ子どもというものについて、
現代の学問が知らない、そういう独創的なものを理解し、愛することを教えたい”
『子どもをいかに愛するか』1918
コルチャック先生はその生涯において「子ども」を探求し、その人間としてのかけがえの無い価値を見出した人物です。
1939年のナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻により、ワルシャワ市内にあった彼の孤児院はゲットーに強制移動。
その中でも悲惨な生活を強いられている多くのユダヤ人孤児の命を守りました。
その間コルチャック自身への救命の誘いは多くあったものの、それを拒み、1942年8月、孤児院の子ども約200名と職員12名と共に貨車に載せられ、トレブリンカ絶滅収容所で子どもたちと共にホロコーストの犠牲になりました。

コルチャック先生が施設長を勤めた孤児院 Dom Sierot(ドム シエロット)
コルチャック先生の部屋だった屋根裏部屋はドイツ軍の空襲で焼失し、現在は無いが、建物は当時の面影を今も残している。

Dom Sierot 1階に飾られている当時の写真。この子どもたちがナチスによりガス室に送られたのです

コルチャック先生と子どもたちが「最後の行進」をして、絶滅収容所行の貨車に乗ったウムシュラークプラッツ(UMSCHLAGPLATZ)
貨車1両分の大きさのモニュメントになっている。
右の白い建物は移送されるユダヤ人たちを収容していた当時の建物です。(今は学校になっている)

白い壁には”along this path of suffering and death over 300000 jews were driven in 1942-1943 from the warsaw ghetto to the gas chambers of the nazi extermination camps.”と記されています。
「1942〜1943年に300万人以上のユダヤ人がワルシャワゲットーからナチス絶滅収容所のガス室に運ばれた」
映画「戦場のピアニスト」の実在の主人公ウワディスワフ・シュピルマンが家族と永遠の別れを遂げたシーンにも出てきます。

コルチャック先生と子どもたちが絶滅収容所行きの貨車に乗る為に、ゲットー内の施設から駅までを「最後の行進」をしたモニュメント(ワルシャワ市ユダヤ人墓地にて)
コルチャック先生は子どもたちを怖がらせないように「一番良い服に着替えてみんなで出発しましょう」と声をかけました。

ワルシャワ市ユダヤ博物館に展示されてある「最後の行進」のみちのり(赤い線)
ゲットーの南にあった孤児院施設から、ウムシュラゥプラッツまで数時間をかけて200名の子どもたちが行進をしたのです。

ワルシャワから90km離れた Treblinka Extermination Camp
トレブリンカ絶滅収容所のホーム跡(右側)です。70万人以上のユダヤの人々がここで貨車から降ろされ、ガス室で殺されたのです。

絶滅収容所跡にあるコルチャック先生のモニュメント
ポーランド語で「ヤヌシュ・コルチャックと子どもたち」と銘してあります。

絶滅収容所のガス室跡地には、この収容所に移送されて亡くなった方々の国や地域の名前が銘された石碑が置かれています。ここだけで73万人以上のユダヤ人の人々が殺されました。
今は静かなトレブリンカの森の青空ですが、コルチャック先生と200名の子どもたちはここに眠っています。

ありし日のコルチャック先生の優しい笑顔
※当ページのカラー画像は園長撮影(Sep.2019)
モノクロ画像は日本ヤヌシュコルチャック協会の使用承認を得ました。
コルチャック先生の生涯
1878年 | ロシア領ポーランド王国のワルシャワに生まれる。 |
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1898年 | ワルシャワ大学医学部入学。ワルシャワ慈善協会で奉仕活動に従事。 |
1905年 | 医学部卒業。小児病院に勤務 |
1911年 | ドム・シェロット(孤児たちの家)設立、施設長就任 |
1918年 | 第一次世界大戦終戦、ポーランド独立。「子どもをいかに愛するか」発表 |
1919年 | ナシュ・ドム(僕たちの家)設立。 |
1929年 | 「子どもの権利の尊重」発表 |
1939年 | ナチスドイツ軍ポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発 |
1940年 | ホロコーストの政策により、ワルシャワゲットーに子どもたちと共に強制移住 |
1942年 | 施設から収容所行きの貨車の駅へ200名の子どもたちと最後の行進をして、トレブリンカ絶滅収容所へ送られる。 |
没後
・「子どもの権利条約」が国連総会で採択される(1989)。これはコルチャック先生による「子どもの権利」の理念に基づきポーランド政府が提案したものです。コルチャック先生の最大の功績と言えます。
・ポーランドを代表するアンジェイ・ワイダ監督による映画『コルチャック先生』が世界中で上映され、43回カンヌ国際映画祭で特別表彰を受賞しました。
・当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が「ヤヌシュ・コルチャックは今日の世界の道徳・宗教のシンボルである」と述べました。
コルチャック先生のことば
『子どもはすでに人間である』
子どもは、だんだんと人間になるのではなく、すでに人間なのだ。人間であって、操り人形ではない。
彼らの理性に向かって話しかければ、私たちのそれに応えることもできるし、心に向かって話しかければ、私たちを感じとってもくれる。
子どもは、その魂において、あらゆる思考や感覚をもつ、才能ある人間なのだ。
1899「隣人愛思想の発展」
『子どもが、ではない。そこにいるのは、・・・人間である。』
子どもが、ではない。
そこにいるのは、知識の量、経験の蓄積、欲望、感情の動きが異なる人間である。
私たちが子どものことを知らない、ということを覚えておくべきだ。
1920「愛」
『子どもというものは、私たち(大人)と等しく人間的な価値をもっているものだ』
『子どもが、ではない。そこにいるのは、・・・人間である。』
そこにいるのは、知識の量、経験の蓄積、欲望、感情の動きが異なる人間である。
世の中には、おそろしいことがたくさんある。
しかし、最悪なのは、子どもが親や教師をこわがる場合である。
子どもは尊重され、信頼するに値し、友人としての関係に値すると言うことだ。
そして、優しい感性と陽気な笑い、純真で明るく、愛嬌ある喜びを、私たちは彼らと共にすることが出来るということ。
さらに、この仕事は実りある、生き生きとした美しい仕事である。
子供を理解することは、大人自身が自分をいかに理解するかである。
子供を愛するとは、自分自身をいかに愛せるかということ。
人は誰しも大きな子供だから。
『今という時間を、まさに今日という日を尊重されよ!』
もし我々が、子どもに今日という日を生きさせてやらなければ、いったい、子どもはどのようにして明日を生きることが出来るのか。
今を踏みにじることなく、圧力をかけることなく、避難することなく、急がせることなく、追い立てることなく。その瞬間、瞬間を尊重されよ。
『子どもとの経験は、私を豊かにしてくれる』
私の見解や、私の感性の世界に影響を与えてくれる。
私は子どもから指示を受け取り、自身に要求し、自らを叱責し、自分に寛容さを示すか、あるいは、身の証しを立てるかする。
子どもは私に学ばせることもあるし、私を育てることもある。
これらヤヌシュ・コルチャックの言葉と思想は、国連の定める「子どもの権利条約」の理念になっています。
国連の定める「子どもの権利」4つの柱
子どもの権利条約は、大きくわけて次の4つの権利を守るように定めています。
子どもにとって一番良いことを実現することを目指しています。
生きる権利
病気などで命をうばわれないこと。
病気やけがをしたら治療を受けられること。
育つ権利
教育を受け、休んだり遊んだりできること。
考えや信じることの自由が守られ、自分らしく育つことができること。
護られる権利
あらゆる種類の差別や虐待、搾取から護られること。
紛争下の子ども、障害を持つ子ども、少数民族の子どもは特別に守られます。
参加する権利
自由に意見を表したり、集まってグループを作ったり
自由な活動を行ったりできること。
「子どもの権利条約」一般原則
成長できること
生命、生存及び発達に対する権利
すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして
成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを
受けることが保障されます。
最も良いこと
子どもの最善の利益
子どもに関することが行われる時は、
「その子どもにとって最もよいこと」を第一に考えます。
参加できること
子どもの意見の尊重
子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、
おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。
差別の禁止
すべての子どもは、
子ども自身や親の人種、性別、意見、障がい、経済状況など
どんな理由でも差別されず、条約の定めるすべての権利が保障されます。
「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」は、子どもの基本的人権を国際的に保障するために定められた条約です。
18歳未満の児童(子ども)を権利をもつ主体と位置づけ、おとなと同様ひとりの人間としての人権を認めるとともに、成長の過程で特別な保護や配慮が必要な子どもならではの権利を定めています。
子どもの生存、発達、保護、参加の権利を実現・確保するために必要となる具体的な事項を規定しています。
1989年の第44回国連総会において採択され、1990年に発効。日本は4年遅れの1994年に批准しています。
さゆり保育園は子どもの権利を大切に守った保育を展開して参ります。